終戦記念日を哲学でといてみたら誰でも見つけられる幸せの定義がみえてきた
慶應通信
こんにちは、ケティコです。
台風が接近して強風がここ数日続いていたせいか、空気が澄んで夜の風景がクリアにみえたので仕事帰りに何気なくパシャリ。
8月15日、終戦記念日を迎えます。
現在テキスト科目で哲学をとっているので、この終戦記念日を簡単な哲学でといてみたら意外にも、誰でも見つけられるひとつの幸せの定義がみえてきたので、それをここに書いてみようと思います。
ニュースを取捨選択する私たち
近年インターネットの普及に伴って情報の取捨選択ができるようになり、若者のテレビ離れが著しくテレビ業界が視聴率が過去のように取れなくなり苦戦をしいられてもうしばらくになります。
テレビでニュースをみるのではなく見たい情報や映像をインターネットで見る時代です。
Google先生のAIが進歩したことで、私たちが偶然目にしているようなネットの映像や情報もアルゴリズムですでに取捨選択されています。
ニュースは発信元の政治的な思想に偏りがあったりニュース番組は番組制作側の意図に洗脳される、という価値観も広まっているのかもしれません。
私自身もテレビがあるにもかかわらず、引っ越ししてから半年経ってもテレビをテレビ線で繋がず放置‥。そんな話をすると、呆れた知人がテレビ線をプレゼントしてくれたことがあるから、自身もまぁ確かにテレビ離れしている一人です。
難しいことを言ったり学んだりする時代はもう終わって、耳障りがよくて心地よいことだけ取捨選択して生きていける時代が到来しましたよ、って。
さて、この価値観を皆さんはどう思いますか?
祖父の戦争体験談
”富山のじっちゃん” と呼んでいた私の大好きだった祖父は、戦時中に南の島で兵役をしていました。
富山のじっちゃんは、布団を引かずに床で寝たり体をたわしで洗うなど、非常に独特な健康法を武勇伝みたいに話すので、そのキャラが面白くって親しみを込めて孫の間で呼んでいた呼び名でした。
私が幼い頃、毎年家族で夏休みに遊びに行っていたのですが、いつかの暑い夏の日に「戦争で足を怪我して治療されるひまもなかったけぇ、弾丸がそのままここに入っとたんじゃよ。」という話をひょっこり話したことを覚えています。
何でも愉快に話す富山のじっちゃんでさえ、戦時中の体験談はあまり話そうとしませんでした。
ゲゲゲの鬼太郎 水木しげる先生の戦争体験記
落書きで書いたゲゲゲの鬼太郎ですが、作者である水木しげる先生が自分の戦争体験記として描いた漫画があります。
先生は戦時中に左腕を失ってしまったため、右手だけで御年93歳まで漫画用原稿用紙に向かっていたことはよく知られています。
私たちの先祖祖先が経験した、戦争というネガティブな歴史についての情報は、この時代においてもう知る必要は無くなったのでしょうか?
歴史とともにある哲学
紀元から中世までキリスト教がいっきに世界的に広まった時代があります。長きにわたって神にとって良い行いをすることが善とされてきましたが、現代哲学者のニーチェは「神は死んだ」と説いたのでした。
これは神を信仰するのではなく、私たち人間が自分の中にある善や道徳心に従って物事を取捨選択するべきだ、と説いています。
このニーチェの考え方は人間が本来もっている善意や能力を信用し自由意志を尊重した現代的な考え方でもあります。
しかしこの思想を政治に取り入れたのがドイツのあのナチス党でした。
これは決してニーチェのフィロソフィーが誤っていたということではなく、自由意志を履き違えると危うい部分があるということの証明だといえそうです。
自由意志を履き違え残虐な過ちを犯したヒトラーですが、彼だけの手によってユダヤ人の迫害が行われたわけではありません。
その代表的な例としてアイヒマン裁判が有名です。ナチス党のアイヒマンという男性はヒトラーの命令通りユダヤの人たちをガス室に送り込むための列車のダイヤを作っていた人物です。
当人は悪いことをしているという自覚はなく、命令をただ自分の任務だと思って遂行していたと裁判で主張したのでした。
無知がゆえに疑いをもたなかった人々が、悪事を悪事と思わずに行うことがあるという危うさが、このことからうかがい知れます。
最後に
現在、私たちは情報を取捨選択して取り入れられるようになりました。
また一部の人たちの間では、難しいことを考えなくても自分にとって心地のいい情報とコミュニティーにだけ囲まれて生きていける時代が到来したんだよ、という価値観も広まっています。
世界では今日も内戦の郷中で夜も寝られない、政治や宗教的な理由で束縛や拘束をされている人がたくさんいるなか、私たちはどうしてこの日本でそれらに恐れることなく生活をおくれているのでしょうか?
なぜ心地よい情報を取捨選択だけしても生きていけるような社会構造になっているのでしょう?
そしてこの現状がいつまで維持されそうか?
これらをわかって生きているのか、わかっていないで生きているのか…。
戦争を体験したじいちゃんばあちゃん世代を経て、今ここで生かされている意味は何かなんて考えなくても生きていける。ただ、背景を知らずに目の前にある現状だけをすくいとって「あぁ〜幸せだなぁ〜。」という言葉には、私個人的には全く魅力を感じません。
皆はどうだろう?
1945年8月15日の終戦日は永遠に変わりませんが、私たちが毎年その日を振り返り続ければ、時代背景が一年一年と変わり、終戦記念日から学べる内容も毎年変わっていきます。
ニュースや目をそむけたくなるような事実をつたえる情報に触れることで負の感情を感じることがあっても、決して流される必要は無いのです。
元祖哲学者であるソクラテスは「無知の知」として、自分が無知であることさえ気づいていないことの怖さや危うさを説いています。
今回テキスト科目で哲学をとったことで、この終戦記念日を簡単な哲学でといてみたら意外にも、誰でも見つけられるひとつの幸せの定義がみえてきたので、ここに書いてきました。
終戦記念日に戦争で行われた事実を振り返り、ご先祖さまとつながるお盆の時期に自分が生かされてることを立ち止まって感じる機会にしたいな。
これができてはじめて、本当の意味での幸せを感じたり自由をちゃんと選びとっていくことができるんじゃないかと思えてなりません。
水木しげる先生の戦争の体験をもとにかかれた漫画「総員玉砕せよ! 」(講談社文庫)
昭和20年3月3日、南太平洋・ニューブリテン島のバイエンを死守する、日本軍将兵に残された道は何か。アメリカ軍の上陸を迎えて、500人の運命は玉砕しかないのか。聖ジョージ岬の悲劇を、自らの戦争体験に重ねて活写する。戦争の無意味さ、悲惨さを迫真のタッチで、生々しく訴える感動の長篇コミック。
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